人の生を受くるは難く

 「人の生を受くるは難く やがて死すべきものの いま命あるは有り難し」
この言葉は法句経(お釈迦様が語られた言葉をまとめた仏教最古のお経)に出てくる言葉です。
非常に簡単で短いですが、心の中にすっとしみ込んで来る言葉です。
この話に関連する以下のような説話も伝えられています。
◆ある時、お釈迦さまと弟子が、ガンジス川のほとりを歩いておられました。その時お釈迦さまが、ガンジス川の砂をひと握り手の平にのせ、「この手の平の砂と、この河原の砂とではどちらが多いか?」と弟子にお尋ねになりました。
「河原の砂のほうが多いです」と弟子は答えました。
それに対しお釈迦様は、「その通り。この世界にはこのガンジス川の河原の砂と同じように数えきれないほどの生き物がいる。だがその中で人間はこの手の平にのるくらいしかいないのだ。それほど人間として生まれて来ることは難しいことなのだ。」と説かれたとのこと。◆
今地球上に870万種の生物がいるそうです。
その870万種の生物がそれぞれ何万何億何兆といるわけですから全体の生物の個体数はとんでもない数になります。
それほどたくさんの生き物がいる中で人間として生まれてくる確率は確かにものすごく低いものです。
私達が人として生まれてきたということは、大変な幸運と言えます。
しかし、この幸運によって生まれてきたとしても、生き物ですのでいつか死ななければなりません。
死を免れることの出来る生き物はいません。
昇った太陽が必ず沈むように、生き物も生まれたら必ず死にます。
私達はつかの間の命を生きているわけです。
大変な幸運によって生まれてきて、ほんの短い時間の命を今生きている。
それが私達です。

お釈迦様の生きた時代は今よりもずっと死が身近であっただろうと思います。
今のような発達した医療もなく、日照りや大雨といった天候の不順だけで多くの人が死に、戦争も身近で頻繁にあったでしょう。
日常の生活の中で人の死体を目にすることが普通にあったことと思います。
今、日本に住んでいる私達が人の死体を目にするのは、大きな災害でも無い限りは家族や近しい人が亡くなった時くらいです。
死を感じる機会そのものが少ない。今はそんな時代です。
でもそんな私達にも死は少しずつ、或いは突然にやって来る。
忘れていても死は必ずやって来ます。
死に触れることが少ない生活の中で、現代の私達は自分から自らの死を想起し、そこから翻って自らの生を確認しなければならないのかもしれません。
今いただいているこの命は、希少という意味においてまさに文字通り”有り難い”ものです。
大切に生きなければなと思います。
住職記

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